いい嫁ってなんだろう? そして、いい同居嫁とはなんだろう?
もし…いい嫁である定義が存在して、かつ、私が素のままで〝いい嫁〟であるならきっと世の中の数少ないであろう幸せな同居嫁であろうかと思う。他方、いい嫁でもないのに〝いい嫁〟を演じることでいい嫁であろうとするのなら、それはきっと……ストレスと対峙する毎日を送る世の中の数多き同居嫁であろうと思う。
――旦那の場合、朝はさほど早くない。低血圧な姑も起きてくるのはいつも遅い。そうは言っても、ガンガン張り切る同居当初は早朝から家事に精を出していたことを思い出す。
ところがだ……姑は起床すると嫁の家事のはかどり具合を始める。「ここはなんでこうなってるの?」「これは誰が動かしたの?」とか…もう本当にどうでもいいことを口出ししてくる。姑にとって、家の中の大物小物のポジションが昨日と違っている件は大問題らしく、何気に何かを動かしてしまうといちいちチェックが入る。これには私も驚いた。
嫁が姑に対してお願いしたことなんて半日で忘れてしまうくせに、普通なら、TVのリモコンを置いた場所が昨夜と違っていても気付かないと思うのに、姑はこわいほど正確に記憶している。こればっかりは本当におどろく……。
こんなささいなことまで、姑に配慮することが〝いい嫁〟なんだろうか?
同居嫁。ひとつ屋根の下で、姑の意思に支配されたまま生活することがいい嫁なんだろうか? 嫁の意思と感覚で家事をすることはいい嫁であるための致命的な減点となるのか?義実家で暮らす同居嫁である場合、「いい嫁」という定義は、舅や姑の視点で日常が稼働するために働く者を指す。すると、生真面目な嫁ほど舅や姑からいわれた通りにしなければいけないと思うだろう。
舅や姑と、自分の考え方や生活習慣、あるいは行動スタイルが似ているのならともかく、大部分はその逆だから、いい嫁を演じようとすると、結果として時間の問題で過度の疲労に襲われてしまうのだ。
この場合の疲労とはストレスであり精神的な疲れだから、一晩休めば回復するようなものでなく、ストレスとしてたまり、限界を超えると爆発したりメンタルヘルス不全となるだろう。
ところで、言われたことを言われた通りにする嫁というのでは、ロボット的、あるいは、家政婦でもできる。家政婦のレベルを超えたところが嫁の喜び、あるいは、嫁だからできる事だといえるのではないかと思う。
話は戻り「ここはなんでこうなってるの?」「これは誰が動かしたの?」と姑が、私をとがめる態度の心理背景には、自分の思った通りにして欲しいという、姑の頑固があると同時に、私にも「そんなに細かいことまでこだわらなくてもいいでしょう?」という自分尺度を用いて姑の言い分をとがめている側面がある。
つまり、嫁と姑の強情と強情のガチンコ……なのだ。
良い機会なので、両者の強情の仕組みを分析してみたいと思う。
ささいな生活道具の置き場所に強情を張る姑には、そうなる経緯があるはずだ。「どうしてそんなことまでこだわるの?」という、嫁の自分尺度をいったん横に置き、姑の強情が出現するようになった生活環境や背景を考察できるように努力すると、姑の言い分や行動を見とがめているだけでは発見できなかった色々な発見があり、ずいぶん違った対応ができるかもしれない。
心の中ではイライライライラするけれど、爆発させると喧嘩になるから……と、ネガティブマインドではなく、私自身が第三者的になるのだ。
つまり、私と姑のストレスフルでギクシャクした関係を、あたかも他人が見物するように自分で静観してみるのだ。
すると、いくぶん自分尺度を捨てたまなざしで二人をとらえ、かつ、対応に工夫を加えてみようかとポジティブシンキングがわいてくる。そうそう、姑に気に入られることがいい嫁なのではない。
嫁も姑も、ついでに旦那も巻き込んで皆がストレスを最小限にして暮らせるために努力する嫁が「いい嫁」なのだ。
「10」という数も、5+5,2+3+5,1+2+3+4,2×5とか……、10という答えを導くには方法はひとつではない。同義で、姑が「10」にこだわったとしても、それに対応するやり方、同居嫁の工夫は何通りかはあるだろう。まさにそれが、嫁としての主体的表現の喜びにリンクするはずだ。
相手の心を理解する努力はとても大切だと思う。姑の生活習慣や嗜好には同居嫁の感覚を超えたものがたくさんある。けれど、それにはそれなりの思いと背景、理由が存在すると考えることもできる。
強情と強情が対峙してしまったとき、ふと、他人が自分たちが見物するような立ち位置で自らを眺め下ろす余裕…姑にストレスがたまる同居嫁には必須のスキルにちがいない。
いい嫁とは……姑評価ではなく自分評価なのである。