同居嫁のストレスって、そういう〝できあがってしまった形〟から受けるものかもしれない。
嫁として密かにあこがれていることがある・・・それは朝寝坊とか二度寝とかつまり、朝ゆっくりと存分に寝ることである。
もっとも平日はいいのだ。嫁として旦那を仕事に送り出す以上、先に起床して手際よく朝支度を行うのは専業主夫としての義務なんだろうし何ら抵抗はない。
が・・・旦那の休みのときぐらい、目覚し時計をオフにして体が自然に目覚めるまで寝ていたーい!そう思うのは誰だって望んでいることじゃないか。
けれど、そんなささやかな望みまでつみとられてしまうのが同居嫁の悲しい宿命だった。
旦那の仕事が休みの日曜日。
日曜日の朝らしいのんびりとした時間空間に包まれる幸せな一家・・・だったらいい。
もちろん旦那は好きなだけ夢心地・・・それなのに平日同様、同じ時間に起きて、同居する姑様の朝食を用意しているあたしがいるのだ。
姑にとって日曜の特別な時間感覚なんてゼロで日曜も平日も・・・年寄りらしく同じ時間に起きてくれる。完全同居で嫁が炊事担当だと、日曜日だから外でお食事という日でも姑ひとり分の食事が必要。
嫁の立場として、これじゃなんのための外食なの?ち、つい愚痴をこぼしたくなる。
そもそも、この問題は同居開始の最初が肝心だった。つまり後悔してももう遅いのだ。
同居開始時は誰だってつい、〝いい嫁〟を演じようとする。だからか、日曜日はゆっくり寝ますとか、息子世帯が外出する時の親の食事は自分で用意して下さいとか・・・約束が交わされていないのだ。それどころか、いい嫁を演じようとするから平日も日曜もいつも頑張る同居嫁を演じてしまっていた。
こういう長続きしない頑張りが、何年も後になって大きなストレスと形を変えるのだった・・・・・・。
365日、朝寝坊に負い目を感じてしまうストレスがここに存在する。義親と息子夫婦のプライバシー問題だってそう。
後追いで考えれば同居嫁のプライバシーなんて、はじめから用意された権利ではなくて勝ち取ってゆくものだった。そもそも、プライバシーという概念は同居嫁だけが持っているだけで姑には最初からプライバシーという概念すらないのだ。
その、根本的なギャップが どんな問題とストレスを生じさせるかというと、姑は勝手に息子夫婦の部屋に入って汚れてもいないのに掃除をする行為が「親切である」というとんでもない思い違いをしてしまうのだ。
わからない人間には教えなければずっと理解しないまま。
その思いで、もしも「おかーさんの部屋の掃除は 自分でやってもらえますか?人の部屋に勝手に入るのってプライバシーの侵害になって悪いと思いますから・・・」と逆の視点で言ったとしても遠回しすぎてダメだった。
「あたしはいいんんだよ・・・見られて困るものなんて置いてないから」
だとさ・・・・・・。
ねっ、プライバシーの概念に根本的にギャップがあって温度差があってもうどうしようもないのだ。見られて困るものの有無じゃなくて、見られたくないという気持ちの問題が大きいのに・・・同居におけるプライバシーは、最初っから確保されたものじゃなく根気よく築いていくしかないのだなとおもうのだけれど、年月が過ぎると結局のところ相手を変えるのじゃなく自分が変わればそれでよしという考え方に落ち着いてしまうものだなあと思う。
プライバシーの定義をきっちりと共有できていなかったツケが今、ストレスとなって嫁を疲弊させている。
さてリビングと言えばふつう、家族だんらんの場所である。
でも、ここでも姑と同居していることによる特別な問題とストレスが絡んできてしまう。
リビングでジッとしていても、いつ姑が入ってくるかわからないから家事が終わって他の仕事もないのなら・・・本当はそこでのんびりしていたい場合でも、姑の気配を感じるその前を先回りしつつ・・・2階に逃げ込む同居嫁である。
せめて2階なら、リビングのような公共の場ではないので若干、安心感というべきかまだくつろげるのだ。
あー・・・・・・二階だけが同居嫁に用意されたくつろぎの空間。
ちょっとお茶を飲むにも水回りがないからいちいち一階からお茶を持って上がらなくちゃいけないけれど、そこは辛抱。
でも・・・・・・ことなにかあれば階段の下から大声で嫁を呼ぶ姑の声を思えば、完全にひとりになれるのはやっぱり布団の中だけだろうか・・・
ここは嫁の居場所、親切と迷惑の温度差を両者が認識し合っていないことによるストレスがここに存在している。
同居嫁には誰が休みと安らぎをくれるのですか・・・・・・?そんなわけで、日曜日の朝寝坊とプライバシーの確保に嫁の居場所・・・この三つがあればストレスはグググっと解消されるはずなのになあと思う同居嫁であった。