f 恥と個性が同義ではない嫁と姑の価値観が違うのはもっともな話~ 姑にストレスがたまる同居嫁のブログ
と嫁のトラブルやストレスは尽きぬもの。それが同居嫁となればなおさらのこと、問題は積み上がる。姑と同居嫁の関係って・・・もうどうにもならないのか?上手く付き合えば、姑は安心を得て嫁は知恵を得るwinwinの二人にもなれるだろうに、そうはいかぬが世の常か・・・・・・このブログは、姑と同居する嫁が主観100パーセントでストレスを言語化するブログである。
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恥と個性が同義ではない嫁と姑の価値観が違うのはもっともな話


同居を始めた嫁が、姑との関係で生じてしまう大小の価値観の違いによってヘビーなストレスをためこんでしまうケースは少なくない。

そうは言っても・・・嫁と姑の価値観の違いが折り合うことは〝ない〟と自覚しておくことは利口な同居嫁である条件なんだろうと思うのだ。

そもそも「恥の文化」の中で生きてきた姑。
他人からどう思われるのかを常に気にして、自分が悪く思われないように振る舞うことを重んじる姑は、他人と同じにしておけば安心できる人だ。

その一方、私たち夫婦は「自分らしさの文化」を生きている。
もちろん人並みの恥も外聞もあるにはあるが、個性を理由にして恥を肯定できるスキルを身に備えているのだ。
違って当たり前、それが嫁と姑の価値観とも言える。

他人の視線なんてずに気にせずに自分たちが快適な暮らしをしようという考えの若夫婦が姑の価値観と合うはずがないのだ。

と・・・・・・、そもそも共感し合える関係ではないことを理解しておきながらも、つい、「どうせなら姑から良く思われたい」と無意識に望んでいる時がある。
誰でも思っていることだが、これがけっこう曲者だ。

この「良く思われたい」というのがストレスの原因になる。

姑にはどう思われようと〝お互い様〟なんだからいいじゃないかと思いつつ、ご近所から良い嫁であると評価されておくことが、恥の文化を生きてきた姑の価値観の傷を付けずに済むことだろうと考えてしまうのだ。
逆に言うと近所から良い嫁だと評価されていないと、同居している姑に〝恥をかかせてしまう〟ことを懸念してしまうのだ・・・・・・。

いまのところ、ご近所づきあいが濃厚な環境で暮らしている私たち。
年中行事もいくつかあって、近所の人と行動を共にすることも多い。そんな環境では、やっぱり、良からぬ評判の対象にはなりたくない。
いろんな場面で、ご近所さんたちと顔を合わせていかなくてはならないので、「あの家の嫁は・・・」と、陰口をささやかれるようでは、とても暮らしにくい場所になってしまうから。

けれど、良く思われるためには〝無理〟が必要。
本当はこうしたいのに、出来ずに別の行動をとらざるを得ない、ということが多々ある。良く思われたい自分がいるのは事実なので、少しの我慢は必要・・・でも、塵も積もれば山となると言うように、無理の積み重ねが大きなストレスのかたまりとなり陰気な表情が続く日々だってある。

ところが、最近あることに気付いたのだ。
それは姑に恥をかかせない〝いい嫁〟か、自分らしさを重んじる〝悪い嫁〟かの白黒どちらかの嫁であることにこだわっていたということだ。。

なんだか単純すぎて馬鹿馬鹿しくも思えるが、いいと悪いの間に〝普通〟という項目があることを気付かなかった・・・・・・。
〝普通の嫁〟であればいいじゃないか?
べつにいい嫁でなくても、普通の嫁であればそれでいいじゃない?と考えられないのは、ストレスがたまって思考がカチコチになる負の連鎖なんだろう。

それじゃあ・・・普通の嫁というのも何が普通なのか突き詰めていくと難しいけれど、とりあえず最低限のことをしていれば普通だということにしてしまった。

例えば、食事の支度――
できあいものの総菜や冷凍食品ばかりで栄養価も何も考えていないようなレシピならともかく、とりあえず、それなりに作られていればヨシ、普通でヨシ、スーパーで偶然であった姑の友達に〝カゴをのぞかれても・・・〟普通のものが入っていればヨシ。
後日、買ってる食材から推測して――さん家のお嫁さんの批評会が開催されたとしても、そこで普通の評価であればマイ姑が恥をかくこともないだろう・・・・・・

世の中・・・できたお嫁さんはいっぱいいることだろう。
でも、自分のキャパシティを超えるような嫁を演じたところでストレス抱えて壊れてしまうだけ。あそこまでは出来ないけれど、これだけならできる、だから自分では合格をあげよう。と、自分が自分を認めてあげられる器量も必要。

ついつい、埋まらない価値観を超えて自己評価をあげようと頑張ってしまうのが同居嫁の悲しい性なんだろうな・・・
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